🍌🌴🪐庭戸のキャンプ地🪿🪴🦥

創作や生活など、全部のことを喋るよ。

自分のTwitter依存が心配になったのと、使ってて心が落ち着かなくなることが多くなってきたのでここしばらく、頑張って自制してる。ちょっとさみしい。たまに見に行ってる。(人里が恋しい化け物?)情報は逃しまくってると思うので一長一短である…。
#愛について
やっぱり愛されることで埋まる孤独もあれば、愛することでしか埋まらない孤独もあると思う。だから愛をひっかけるための釘なんだよね📌
愛は「唯一無二の運命の相手に巡り合う」ところから始まるのではなくて、その人を愛してみようと決めるところから始まる、という部分もあると思う…うまく言えないけど。

今ここにいて自分に出会ってくれた偶然性こそが唯一無二なんだって気もする。人生は一回きりで、人間はめちゃくちゃ多くて、そのうち9割以上の人とは関わらず死んでいくから。
星の王子様の薔薇が特別なのは、その薔薇にかけた時間のためだというのが好きだ。時間を割いたから特別になる。時間という絶対取り戻せない資産を使った。同じ時間を共有した。その経験が他の薔薇との価値を決定的に分けている。他の薔薇と王子様の薔薇のちがいはたったその一点で、それは客観的な価値ではなく極めて主観的な価値で、主観的な価値というのは比較できないため強い。
でも逆にいうと、この人に時間を使おう、と思える程度の好意や特別性は愛の始まりに必要不可欠かも。それはそうか。

こういう鬱陶しいことを平気で書ける場があるの嬉しい🫶畳む
カラオケ行こ!映画と原作の感想文🎤

◾️映画観て初めて、狂児にとって聡実くんって可愛すぎん?と気がついた。紅歌うの裏で聞いてた狂児の視点考えたことなかった。「超えて」可愛く思っても仕方ないかも…狂児の人生に降ってきた最も美しい瞬間じゃん…。

聡美くんがモナリザになってるあの絵が好きなんだけど、狂児は聡実くんのことを一つの絵画のように思ってるのかな。自分が死んだと思って泣きながら、最後のソプラノ使い切って歌ってくれた中学生の男の子。確かに、絵画かも…。

■映画部について
もともと、ヤクザの狂児とのカラオケレッスンが聡実くんにとって唯一の逃避場所として機能していたのがすごく良かったんだと気が付いた。中学生の世界なんて本当に狭くて、だから余計に特別で鮮烈だった。今回の映画では、逃げ場としての機能を映画部が相当量担ってたので意味合いが変わりそうな気がした。狂児の存在も映画部の子に明かしていたし。やっぱり、高校の卒業文集に書くまで誰にも言わないまま聡実くんの胸のうちにだけ秘められていた出来事であることが本当にいいから。でも、映画部の子のキャラ自体はめっちゃ好き。

■泣きギレする聡実くんの流れについて
泣きギレの流れが若干違ってて、どちらも聡実くんの幼さが出ていてよかったが、狂児への甘え、八つ当たりの感じがよく出ていた原作の流れ、好きだな…。映画の方ももちろん可愛いが…。違いがあったことで私が原作のどこに萌えてたのか気付けて良かった。狂児なんかに甘えてしまえる背景として、逃避場所のなさと、狂児が自分を子どもとして扱っていることと、その狂児の態度に「甘い特別さ」を見出してしまえること、の3点があったと思う……。ハァ…。ここが一番好き。甘えと八つ当たりを自覚している聡実くんは本当に聡い。

◾️原作改めて読み返して本当に思うけど、狂児の懐かしく苦いリアルな存在感ってなんなんだろう?狂児のような人間に出会ったことがあるわけではないのに、くらっとするほどノスタルジー。畳む
新しいマグカップ買った。
私と私の新しいマグカップが100年続きますように…。

苺食べすぎて家計が圧迫されている。苺は紅茶に入れてふやかして食べている。甘くなって美味しい。
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にわかには信じられないくらいイチャついてる#よはなよ∞
天使志願の世界線👼 全4p
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明日からの自分を鼓舞するためにまた夜更かししてしまいました
コロシテ…畳む
カラオケ行こ!の映画観てきたのと、ファミレス行こ。上巻も読んでなんだか気が狂いそうになっている。映画の感想改めて書きたい。

ファミレス行こ。上
https://a.co/0SgOH5k

取り急ぎ、ファミレス行こ。のこれは恋愛として描写されているのか…?と思うと震えてしまう。わからない。有識者の意見とか見てなくてわからないんだけど…みんなどうしてるの?この気持ち…😭🫀
聡実くんが狂児をやっつけようとしてることだけなんとなく伝わってくる。頑張れ、思い知らせてやれ。傷付けてもいいし、めちゃくちゃにしてやればいい。
#考えごと
辻褄が合うということは人間の本能的な快感なんだろうな。
一時期人狼ゲームのログ観戦するのが趣味だったんだけど(根暗オタクの好例?)その面白さをよく感じていた。
ストーリーのない事実よりもストーリーのある嘘の方が強い。事実は、ときには意味のない偶然の連続だったりする。「意味のない偶然の連続」なんかに人は耐えられない。

どちらを信じるかという局面に陥ったとき、人が選ぶのは納得感のある方で、納得感というのはつまりストーリーがある方で、そのストーリーに、より辻褄が通っている方。人間は物語としてしか事象を解釈できない部分がある。
真実には意味がないこともあるが、嘘には必ず意味がある。人間に「意味のない偶然の連続」を創作することは難しいと思う。(それをするメリットも薄い)

本のタイトル覚えてないんだけど、むかし未解決事件のルポルタージュ本を読んだとき、ちょっと衝撃的だった。この現実世界に神様はいないんだと思って怖くなった。少なくとも、神様は私達の方を見ていない。そっぽを向いている。いたとしても人の思考を持っていない、昆虫のような神様だと思う。

フィクションの世界のなんてあたたかいことか。フィクションの世界には作者という人間の神様がいて、キャラクター達のことを見守ってくれている。どんなに残酷な物語でも、物語というだけであたたかい。辻褄があって、全ての描写に意味が持たされている。人の手が入っている。無意味な偶然の連続や、関連性のない事象の断片ではない。
現実はフィクションと違って、無機質で広大で、意味は繋がらないときもあって、私たちの都合なんて微塵も考えてない。
だから人は物語に惹かれるんだろうと思う。現実があまりにも物語ではないから。物語ではない現実にいつも耐えかねていて、物語を欲しがる。

一方で、意味がないことや、辻褄がないこと、理不尽なこと、コントロールできないことに対する怖さに無性に惹かれる。そういう冷たいわからなさに痺れる。宇宙のことが好きなのも、そういう冷たさがあるからかも。人の都合なんて全く知らないし、わからせない、遠い冷たさ。昨今そのムーブメントが盛り上がってるんじゃないかと思ってるけど、ずっとあるのかも。
#自分の好きを整理しようの会
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