🪐庭戸のキャンプ地🪿

創作や生活など、全部のことを喋るよ。

#考えごと
辻褄が合うということは人間の本能的な快感なんだろうな。
一時期人狼ゲームのログ観戦するのが趣味だったんだけど(根暗オタクの好例?)その面白さをよく感じていた。
ストーリーのない事実よりもストーリーのある嘘の方が強い。事実は、ときには意味のない偶然の連続だったりする。「意味のない偶然の連続」なんかに人は耐えられない。

どちらを信じるかという局面に陥ったとき、人が選ぶのは納得感のある方で、納得感というのはつまりストーリーがある方で、そのストーリーに、より辻褄が通っている方。人間は物語としてしか事象を解釈できない部分がある。
真実には意味がないこともあるが、嘘には必ず意味がある。人間に「意味のない偶然の連続」を創作することは難しいと思う。(それをするメリットも薄い)

本のタイトル覚えてないんだけど、むかし未解決事件のルポルタージュ本を読んだとき、ちょっと衝撃的だった。この現実世界に神様はいないんだと思って怖くなった。少なくとも、神様は私達の方を見ていない。そっぽを向いている。いたとしても人の思考を持っていない、昆虫のような神様だと思う。

フィクションの世界のなんてあたたかいことか。フィクションの世界には作者という人間の神様がいて、キャラクター達のことを見守ってくれている。どんなに残酷な物語でも、物語というだけであたたかい。辻褄があって、全ての描写に意味が持たされている。人の手が入っている。無意味な偶然の連続や、関連性のない事象の断片ではない。
現実はフィクションと違って、無機質で広大で、意味は繋がらないときもあって、私たちの都合なんて微塵も考えてない。
だから人は物語に惹かれるんだろうと思う。現実があまりにも物語ではないから。物語ではない現実にいつも耐えかねていて、物語を欲しがる。

一方で、意味がないことや、辻褄がないこと、理不尽なこと、コントロールできないことに対する怖さに無性に惹かれる。そういう冷たいわからなさに痺れる。宇宙のことが好きなのも、そういう冷たさがあるからかも。人の都合なんて全く知らないし、わからせない、遠い冷たさ。昨今そのムーブメントが盛り上がってるんじゃないかと思ってるけど、ずっとあるのかも。
#自分の好きを整理しようの会
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